第7回リポート 発展課題
 「稚内からみた世界史
   -フランス革命と稚内・ゆるキャラ『りんぞう君』・「コーヒー・ストーブ-」


1.はじめに

 何か変なタイトルですね。フランス革命と稚内がつながっている?

今回のリポート発展課題は、「稚内からみた世界史」としました。稚内市は日本最北の都市、人口は約3万8000人の街です。年平均気温は7℃、北から旅をしてくる鳥たちが最初に羽を休め、北へ向かうものたちが最後の準備を整える場所でもあります。サハリンまでの直線距離は約43㎞、オホーツク海には冬になると流氷が押し寄せ、トドやゴマフアザラシが回遊し、彼らが食料とする魚介類の豊かな海です。その理由は、北方から来る宗谷海流(寒流)と、南から来る対馬海流(暖流)がぶつかるためです。さらにその一部が宗谷岬を越え、知床岬近辺まで海岸沿いに流れています。オホーツク海沿岸が内陸に比べ暖かい理由であり、オホーツク海が豊かな海である理由でもあります。

第7回リポート 発展課題

 「稚内からみた世界史-フランス革命と稚内・ゆるキャラ『りんぞう君』・「コーヒー・ストーブ-」

1.はじめに

    何か変なタイトルですね。フランス革命と稚内がつながっている?

 

今回のリポート発展課題は、「稚内からみた世界史」としました。稚内市は日本最北の都市、人口は約3万8000人の街です。年平均気温は7℃、北から旅をしてくる鳥たちが最初に羽を休め、北へ向かうものたちが最後の準備を整える場所でもあります。サハリンまでの直線距離は約43㎞、オホーツク海には冬になると流氷が押し寄せ、トドやゴマフ *アザラシが回遊し、彼らが食料とする魚介類の豊かな海です。その理由は、北方から来る宗谷海流(寒流)と、南から来る対馬海流(暖流)がぶつかるためです。さらにその一部が宗谷岬を越え、知床岬近辺まで海岸沿いに流れています。オホーツク海沿岸が内陸に比べ暖かい理由であり、オホーツク海が豊かな海である理由でもあります。


 

 

 

 

          

      

高緯度に加えオホーツク海からもたらされる冷涼な海霧は、花の島と呼ばれる礼文島と同じように、高山植物が育つには良好な条件となります。このような自然条件に恵まれた稚内周辺には、古代から人々の生活がありました。

<宗谷岬動画>                 <稚内博物館動画>



 この稚内から世界史を考えるために、いくつかのものを取り上げました。時代が古い順番に並べると、上の表題「フランス革命と稚内・ゆるキャラ『りんぞう君』・「コーヒー・ストーブ-」になります。稚内市は、現在もサハリンとの国境を抱える街ですが、江戸時代にもロシアとの国境をどのように引くか、そしてその中間地帯に住むアイヌの人々にどういう支配を行うか、といった問題がありました。この過程で、間宮林蔵のサハリン探検が行われ、結果的にサハリンが大陸とは別の島であることが確認され、国際的にも名前を残す間宮海峡が発見されるわけです。なおこうした探検は、日本のみならずヨーロッパ側からも盛んに行われていました。サハリンや千島を含めた北大西洋地域は、世界地図が最後に埋まった場所であり、ロシアにとってはイギリスとの対抗上、遠くシベリアを超えて沿海州方面へ南下をする必要があった場所だったのです。その理由は後に述べますが、要するに圧倒的なイギリスの軍事力に敗れたロシアは、ヨーロッパ方面での南下を断念せざるを得ない状況になったということです。さらにロシアが近代化のために購入する物資を支えたのは、シベリア以東で算出する毛皮、特にクロテンやラッコの毛皮でした。つまり、「毛皮を売って機械を買う」状況があったわけですね。

ご存じラッコ。毛皮は特に柔らかい高級品。

さらに中国・清朝にとってもサハリン・沿海州方面は元々満州族の故地に近く、アイヌの人々が間宮海峡を越えてアムール川下流に設けられた支配拠点へ朝貢にきていました。彼らは毛皮などを朝貢し、代わりに支配の証しとしての絹織物などを受け取りました。これが、皆さんが中学校で習った「蝦夷錦」と呼ばれる衣装なのです。稚内は、こうしたモノの歴史の窓口でもありました。以下、上記の3つのモノを中心に、稚内から江戸時代後半の世界史を見てみましょう。
 
2-1 稚内とフランス革命のつながり-宗谷海峡を通ったラ・ペルーズ-



地理学の世界では、宗谷海峡を「ラ・ペルーズ海峡」とも呼びます。実はフランス革命の2年前、1787年に、世界一周のフランス探検隊を率いて、宗谷海峡を通過した人物です。
 
ラ・ベルーズの最大の功績はヨーロッパ人で初めての宗谷海峡航海です。この航海によって、地続きとされていた蝦夷本島とカラフトが海によって隔てられていることが、はっきりしたのです。上の写真で示した碑文には、以下のような文面が書かれています。

1785年、フランス国王ルイ16世は
  世界海洋科学調査航海を命じます。                  
  二隻の艦艇司令官として、ラペルーズ伯爵、
  ジャンー・フランソワ・ド・ガローが
  この航海の指揮にあたります。
1787年、日本海探索後、日本海とオホーツク海を結ぶ
  海の存在を確認しました。
  同年8月、二隻の艦艇と共に、宗谷岬の沖にひろがる
この重要な海峡を渡り切りました。
従って、太平洋に合流する
この航路を通過した最初の欧州人なのです。
1789年、オーストラリア出港後行方不明となり、
この勇敢なる英雄は故郷フランスの地を再び踏む
ことはありませんでした。
この航海者の功績と発見を讃えて
世界海洋界はこの海峡を次のように命名しました。
ラペルーズ海峡

ラ・ペルーズに航海を命じたのは、後にフランス革命でギロチンで処刑された、マリー=アントワネットの夫、ルイ16世です。

<学習書P.136を参照しましょう。>
彼の探検航海は1787年(天明7年)のことで、まず日本海を沿海州沿いに北に進み、沿海州とカラフトの間を北緯51度付近まで達しましたが、それから先は濃霧で視界をさえぎられ、航行は不能とみて引き返しました。その後カラフトの西海岸沿いを南下し、オホーツク海に出ました。宗谷海峡を発見したのはこの時のことです。なお、外国船の北方地域探検はラ・ペルーズだけではありませんでした。英のブロートンも太平洋から津軽海峡を通って日本海に入り、ラ・ペルーズ同様、カラフトの西岸を北に進み、ラ・ペルーズよりもおよそ13 km前進したといわれますが、やはり濃霧や激しい海流にはばまれてそれ以上の北上は断念しました。彼も大陸とカラフトを隔てる海峡(つまり後の間宮海峡)を、発見できずに終っていたのです。
 こうした北域の調査に、ロシアが強い関心を示したのは当然でしょう。中学でも少し勉強する、1804年(文化元年)のロシアの使節レザノフが長崎に来た際、これを送ってきたクルーゼンシュテルンがカラフトを調査しました。彼はブロートンとは逆に、日本海から宗谷海峡を東に抜け、オホーツク海を北上してカラフトの東海岸を調査し、さらに北端を確認して西海岸の一部まで調査したといいます。この調査によってクルーゼンシュテルンは、蝦夷本島ではブロートンが調査し残した石狩湾を明らかにし、カラフト島ではラ・ペルーズやプロートンが未調査の東北部の海岸線を明らかに描き出しました。
 以上三人の探検航海の結果を総合すると、カラフト全島の形をほぼ正確にすることができるはずですが、クルーゼンシュテルンも黒竜江の河口地域までは到達しませんでしたので、カラフトが島であるか、それとも半島であるかは、依然として不明でした。この問題を解明したのが、間宮林蔵なのです。


2-2 間宮林蔵は何をした人でしょうか?-ゆるキャラ「りんぞうくん」- 
有朋高校地理歴史科では、2013年6月27-28日にかけて、実際に稚内で調査を行い、この教材に活用する動画を撮影してきました。
←この方が稚内市のゆるキャラ「りんぞうくん」(出典:北海道宗谷振興局HP)


稚内市の女性職員が考案したのだそうです。
間宮海峡で有名な間宮林蔵ですが、彼は武士の生まれではありません。農民の子供として生まれた彼は、その地理学の知識を持って
蝦夷地踏破を行いました。彼がこのような事業を成し遂げた背景を、当時の世界史から考えてみましょう。

2-3-1 間宮林蔵の調査

 時代は18世紀。ヨーロッパでは絶対主義国家による地球上の「探検時代」が続いていました。この時代、地理学上、両極地域を除くと、世界史では樺太周辺が最後の空白地帯として残されていました。当時のヨーロッパの地図を見ても、樺太は大陸から陸続きの半島なのか、島なのか、未解決のままでした。一方幕府の側から見ますと、当時はロシア船が日本近海に出没するなかで、ロシアの勢力が樺太のどこまで及んでいるのか、また中国・清朝の勢力が樺太に達しているのかいないのかも分からない状況でした。また同じ時期に稚内ノシャップ周辺にロシア人が上陸して土地の様子を窺うという状況にいたって、蝦夷地さえも脅かされるという、北方地域の緊張が増していた時代でした。
 
2-3-2 幕府の蝦夷地直轄とロシア-間宮林蔵の踏査の世界史的な背景


 <レザノフとロシア>
 このような情勢のなかで、文化4(1807)年3月24日、幕府は宗谷、樺太を含む西蝦夷地を松前藩より召し上げ、直轄地としました。国境の管理を松前藩という一小藩に任せておいて良いのかという問題だったのです。すでに寛政11年(1799)から直轄となっていた東蝦夷地と合わせて、このときに蝦夷全島が幕府直轄となりました。18世紀半ば以降、ロシアは毛皮を求めてオホーツク海を南下しており、北千島一帯を支配していました。現在も道東で見られる人気者のラッコの毛皮は、当時最高級品として、ヨーロッパで非常に需要が高かったためです。ロシアはこのラッコ猟に関わる船の食糧、燃料を確保するため、日本と通商条約を結ぶ必要がありました。1792年にシベリア総督の使節アダム・ラクスマンが日本に送られた理由です。ラクスマンは日本人の漂流者大黒屋光太夫を伴い、根室を経て箱館に着きました。中学校の教科書で読んだ人もいるでしょう。
 時の老中松平定信は、漂流民の送還についてはロシア使節の対面を尊重して引き取りましたが、鎖国を理由に通商は認めませんでした。その後1804年9月、当時のロシア皇帝アレクサンドル一世の侍従長であり、ロシアの国策会社「露米会社」の総支配人であるニコライ・レザノフが、通商を結ぶため再び日本に派遣されて来ました。中学校の教科書にあるレザノフは、こうした人物なのです。
 「露米会社」とは、ロシアが、「東インド会社」にならい、千島樺太、アリューシャン、アラスカ、カリフォルニアに及ぶ北太平洋の開発のために1799年7月、勅令によって設立した会社です。その目的は、この地域で獲れるラッコやオットセイの毛皮が生み出す莫大な利益でしたが、会社の維持に必要な物資を遠くヨーロッパから運ぶことは事実上不可能であり、その解決のために日本と通商条約を結び、物資を供給してもらう必要がありました。レザノフは、ロシアで最初に世界周航を成し遂げた、エストニア出身の航海家クルーゼンシュテルンの世界周航の計画に便乗するかたちで、仙台若宮丸の漂流民である津太夫らを伴って長崎に入港しました。なお津太夫は、農民の子で、あまり知られていない人物ですが、千島に漂着後、シベリアを超えモスクワからサンクトペテルブルクに送られ、その後クルーゼンシュテルンと共に南米からハワイ・太平洋を横断して日本へ到達した、はからずも日本で最初に世界一周をした人物です。
 さて、レザノフは松平定信からラクスマンに与えられていた交易への「書状」を携えていましたが、幕府は通商を認めませんでした。書状を与えた松平定信は既に老中を退いており、以前にくらべ幕府は外交政策に対しても消極的になっていました。津太夫らを送還してきたことも、アレクサンドルⅠ世からの将軍あての親書も空しく、レザノフー行は半年間長崎に留め置かれたあげく、1805年3月、日本を後にしました。しかしレザノフは、皇帝に対して面目がたたないばかりか、ロシアでの自らの立場が危うくなるため、このあと日本海を北上し、ノシヤップに上陸した後、樺太へ向かいます。ロシア政府から樺太の交易の実態や、それに対する日本政府の方針などを調査するように指示を受けていたレザノフとクルーゼンシュテルンは、ここで日本人の役人や、大阪からやってきた北前船の乗組員たちと接触しています。クルーゼンシュテルンはこのときに資源豊かな、しかも警備の薄い樺太を奪取しようと考えますが、レザノフの同意するところとなりませんでした。軍人・航海家であるクルーゼンシュテルンと違い、露米会社の総支配人という立場にいるレザノフは、今、樺太そのものを手に入れるよりも、日本とその周辺に軍事的圧力をかけてロシアの国力を見せ付け、それにより幕府に通商を開かせるほうが、より国益のためになると考えていました。
 ここでいよいよレザノフは日本襲撃の準備を始めます。彼は途中立ち寄ったアリューシャン列島のウラナスカ島から、皇帝アレクサンドル一世に上奏文を送りました。
 「私は日本を攻撃します。攻撃すれば日本はロシアと通商を結ばなければならなくなり  ます。それはロシアに利益をもたらします」
と書いています。その後レザノフは皇帝に報告をするため首都ぺテルブルクに向いますが、かねてから健康を害しており、雪の中を進むうちクラスノヤルスクで倒れ、文化4年(1807)3月失意のうちに亡くなります。43歳でした。しかし部下はレザノフの死を知ることができず、二隻の軍艦に乗って樺太、択捉、宗谷の海域で略奪行為を繰り返すことになります。間宮林蔵がサハリンを探査したのはこうした時代背景の下でした。

どうでしょうか。ここまで読んでくれた皆さん、まさに世界史ですね。

2-3-3. 間宮林蔵の踏査
 文化5年4月17日、幕府の役人であった松田伝十郎と、間宮林蔵の二人は、サハリン南端の地である白(しら)主(ぬし)において準備をととのえ、二手にわかれ北上をします。伝十郎はサハリン西海岸を、林蔵は東海岸をそれぞれ北へ進みました。伝十郎は6月19日(1808.7.12)、ラッカ岬に着き、海草が腐食して歩くこともできない海岸の状況から推定して、山丹地マンコウ川(黒竜江、アムール河)の河口と認めました。北夷談という当時の史料によると、「…このラッカという所から先は、海藻が腐れ深く踏み込み一里も進むことができない。」として帰途につきました。一方、林蔵は北知床半島の地峡部を越えてオホーツク海に抜け、更に進もうと漕ぎ出しましたが、波にほんろうされ、そこから先には容易に進むことができず彼も引きかえしました。間宮はこれまでの踏査結果をまとめ、1人残ったアイヌに渡し、もし彼が死亡して帰らぬときには、これを白主の役所に届けるように命じ、6月26日、山丹船で7人のニヴヒと共にアムール川をさかのぼり、7月11日デレンに着きました。
 そこは中国清朝の役人が毎年二ヵ月ほど満洲から出張してきて場所をもうけ、各地から集まる様々な民族の貢物、主として沿海州やカラフト方面からやってくる少数民族から貂(テン)などの毛皮をうけとり、そのかわりとして錦織(ニシキ:絹製品)などを与え、交易の監督にあたっていた所でした。林蔵はここを「満洲仮府」と名づけています。14,5間四方の丸太の柵を二重にめぐらした中に、左右後方に交易所をもうけ、更にその中間やや後方に一重柵でかこったところが役所の中心である「府」で、そこに役人がいて監督業務に就いていました。
 
 交易のあいだ、仮府の柵の周囲には、様々な民族が小屋や天幕を張って仮住まいをしていました。多いときで1,000人くらいの人が群れているといわれ、林蔵が行ったときも5~600人を数えました。林蔵はそこに7日間滞在し、大河に舟を浮かべ帰途についたのは7月17日、カラフトの南端白主に帰ったのは9月15日(1809.1023)のことでした。ここで、林蔵は思いがけない人と再会します。前年、一緒にカラフト踏査をした松田伝十郎がカラフトに駐在していました。伝十郎は林蔵の偉業を讃え、その労をねぎらいました。 白主で身体を休めた林蔵は、28日(1809.11.5)、出発点の宗谷に戻って、身辺を整理し、松前に帰ったのは12月27日(1810.2.1)のことでした。
 一年半に及ぶ大踏査の結果は、天保元年(1830)、フランスの地理学者ルクルスによって間宮海峡としてみとめられ、また、林蔵のカラフト図は、オランダの医師シーポルトが嘉永4年(1851)に刊行した「日本陸海図帖」に載せられ、「間宮海峡」の名は世界地図に記されることになりました。1年半に及ぶ探検の成果は、その後、林蔵が口述したものを記録した村上貞助によって「北夷分界除話」と「東縫地方紀行jに編集・筆録されました。この記録のおかげで、私たちは現在200年前のこの地の様子を知ることが出来るのです。

 ←宗谷岬にある間宮林蔵の碑

稚内市展望台から動画

2-3-4. 幕末の宗谷-コーヒーとストーブ-
 レポートでも勉強しますが、ペリー来航による日米和親条約の締結後、幕府は箱館開港準備のため、安政元(1854)年、箱館奉行を置き、翌2年、西は乙部より北、東は木古内より北の地を直轄とし、蝦夷地の警備、収納、アイヌ撫育などを箱館奉行に一任し、蝦夷地は再び幕府領となりました。樺太をめぐる日露の争いも激しくなり、日本側も樺太の漁場開発などを積極的に推し進めたのです。
 さて、幕府は蝦夷地を再度直轄するにあたり、蝦夷地経営の重要性から役人の通年での常駐を図り、越年、防寒には特別の配慮をすることとしました。越年者の家族も含めた特別手当の支給や、ストーブの製造・配備に努力しました。初めて製作するストーブ(火偏燗・カッヘル・カッペル)には多額の金額と試作および製造に時間を費やしました。北海道で生活している皆さんには、ストーブなしで冬を乗り切るのはありえない話だということが良くおわかりですよね。上の写真はその復元ですが、大きさを実感して下さればうれしいです。なお、煙突は土管を漆喰(しっくい)で固めた物でした。
 さて、この時代の越冬に用いらたものに、コーヒーがあります。すでに享和3年(1803)に当時の蘭学医が、コーヒーには浮腫と呼ばれた一種の壊血病に対して、薬効があることを発見しています。コーヒー豆に含まれる水溶性ビタミンB複合体の一つにニコチン酸がありますが、浮腫は野菜が取れないことによりますから、一定の効果があったのですね。
 それから50年程が経ち、幕府が再直轄した際、水腫病の予防薬として和蘭(おらんだ)コーヒー豆が配給されたという史料が残されています。その記述には

     「和蘭コーヒー豆、寒気をふせぎ湿邪を払う。黒くなるまでよく煎り、

       細かくはらりとなるまでつき砕き、二さじ程を麻の袋に入れ、

       熱い湯で番茶のような色にふり出し、土瓶に入れて置き

       冷めたようならよく温め、砂糖を入れて用いるべし』

とあります。まるでティーバッグのようなやり方ですね。実際にやってみましたが、まずくて飲める代物ではありませんでした。おそらくオランダ渡りの高価な薬と考えられたのでしょう。


                                                                                                                                  

  コーヒーの碑動画

なお、この「オランダ」ですが、当然北海道よりも北にあるオランダでコーヒー豆が出来るわけはありません。コーヒーという植物は暖かい場所でないと出来ないのです。日本でコーヒーを作っているところが思い浮かばないことを考えてみれば分かりますね(今は、石垣島などで栽培をしているらしいです)。このコーヒーは当時オランダの植民地だったジャワ島で生産されたものでした。世界史でジャワ島といえば、プランテーションによる「強制栽培制度」で有名ですが、そこで生産されたコーヒーが遠く稚内まで届いていたことになりますね。



2-3-5.実用ストーブ(カツヘル)
 上の写真は、稚内の博物館で復元されたストーブです。当時、煙突は土管を漆喰で固めたものでした。1855(安政2)年から幕府は蝦夷の大半を再直轄していましたが、翌安政3年2月、箱館奉行は駐在員の派遣を前に、寒地越冬の方法について意見を求めたとき、いろいろな意見の中で、
家屋の防寒改修費を出すことと、「カッヘル」という火炉(カロ)をいただきたい.製法は武田斐三郎が心得ています、と申し出たのが上述した梨本弥五郎でした。なお武田斐三郎は北海道では五稜郭を設計した人物として有名。五稜郭は今回のレポートにもありますね。梨本弥五郎の義理の息子にあたり、その才能故に幕臣となり、長崎ではプチャーチンと交渉を行い、箱館ではペリーと会見し、明治以後は陸軍士官学校長を勤めた人物です。


最後に-ここまで読んでくれた皆さんへ

 稚内からみた世界史の中身はどうだったでしょうか。日本史や世界史の教科書に出てくる幕末から明治は、開港地となった横浜や戊辰戦争の最後の激戦地箱館と言った場所から考えることが出来ます。しかし、日本の北辺とされた稚内にも、激動の波が押し寄せていました。身近な地域から世界史を考えることで、少しでも身近な歴史を感じてくれれば幸いです。

稚内にはこのほかにも、昭和6年にサハリン航路のために引き込み線(雨風に当たらずにサハリン航路の船に乗れるための線路)として作られた北防波堤ドームがあります。現在は映画やドラマのロケ地としても良く使われる場所ですが、サハリンへの玄関口だった歴史を感じることが出来る場所です。